転んだことのある人にしかわからない幸せ

これはあくまで私のことを例に挙げたたとえ話ですが、人にはそれぞれキャパがあり、それを超えることをすると体がついていかなくなり転んでしまいます。

私は夢の為に膨大なる知識と経験を取り入れる為、体を動かし、脳を働かせてきました。たった2、3年間ほどですがね笑

夢に向けて努力を惜しまない自分が好きで、高い理想と自分の価値観を押し通してきました。しかし、評価されればされるほど、期待と焦燥感に押しつぶされそうになり、視野は狭まり、周囲がみんな敵に見えてきます。

先生から見れば相乗効果が得られ、いい授業ができているという満足がもしかしたらできるのかもしれませんが、生徒にとってみては地獄の日々です。なぜならば先生の評価が全てだという思い込みをしてしまうからです。

ある1人の先生が良い評価をしたとしても、それが外に出て通用するとは限らない。

そうなるとどのようなプレゼンテーションをすれば認めてくれる人は増えるのかを探らなくてはならない。

考えて形にしたところで、その考えた部分をプレゼンテーションしなくては、意志は通じない。これを永遠と考えていると、泥沼にはまり自分1人では抜け出せなくなります。

今はその世界から離れ客観的に自分のことを振り返れてますが、その時の私にとっては先生の評価が全てになっていたのだと自分でも思います。

離れた理由は奥深いところまでのめりこんでしまい、泥沼から抜け出せなくなり体が動かさなくなったからです。

そして、私は精神的異常をきたし、入院となりました。

それが私の今までの人生において今までで一番大きな転びだったのでしょう。爆発した。という言い方をしていた時期もありました。

しかし、その世界を離れたことによって私には他の世界を見る目が養われたと今は思っています。

温かいご飯が出てくることの幸せさ、恋人という大きな存在。ちいさくて温もりのある子犬。無邪気な子供の笑顔。

こういった些細なものが、ことが幸せの根本と思えるようになってきたからです。

現代社会では画面越しにコミュニケーションを取れるという便利な世界になってきていますが、その反面日常の小さな幸せが見つけにくくなっているように感じます。

LEDで眩しくなった街から星が見えなくなっていくように、当たり前で小さな幸せも見つけにくくなっていく、そんな気がします。